長野通信Vol.3

~2年が過ぎた農業生活と3・11以降の課題~

 

皆さんお変わりありませんか。私がトライを退職し、長野県須坂市での
農業生活に転身してから早くも2年が過ぎました。こちらでの生活や仕
事にもだいぶ慣れてきましたが、やはり自然相手の仕事なので、いろい
ろ大変なことが多いです。

 

ringo0822.JPGのサムネール画像 

 

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今の時期は早生のりんごの収穫と田んぼの雑草取りなどですが、9月に
入ればぶどうの収穫が始まり、並行して中生種のりんごの収穫と下旬に
は稲刈りと忙しくなります。実りの秋を迎えることになるわけですが、
今年は大きな心配の種があります。

3月11日に起きた未曽有の大震災・津波そして福島第一原発事故は、多
くの犠牲者と被災者を生み出しました。首都圏の皆さんも大変な思いを
されたと思います。

こちら長野県北部でも大震災翌日の3月12日に震度6強の強い地震があ
り、新潟県境にある栄村が壊滅的な被害を受けました。幸い私の住んで
いる須坂市では大きな揺れはなく被害も出ませんでしたが、その後も東
北・関東・中部地方など各地で大きな地震が続いています。どこでさら
に巨大な震災被害があってもおかしくないだけに、覚悟と備えが必要だ
と感じています。
 

8月初めに私の故郷の宮城県に行った際に、3・11の津波で甚大な被害
を受けた名取市の海岸部の閖上(ゆりあげ)地区を訪れました。テレビ
のニュースなどでは見ていた光景ですが、やはり実際に現場を見るとそ
の被害の大きさに言葉もありませんでした。
 

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すでに大きな瓦礫類はほとんど撤去されていたものの、広大な更地の中
に、むき出しになった建物の基礎部分だけが残っていたり、壊れたビル
やかろうじて外形のみ残った家屋、そして津波で破壊された乗用車が積
み重ねられていました。その光景は本当にハッと息を飲むような何とも
言えない情景でした。仙台平野が延々と広がり高台が全くなく、津波が
押し寄せた時に住民の一部は海岸と並行して盛り土で作られていた東部
自動車道にかけ登ってかろうじて難を逃れたということが実によくわか
りました。一面の田んぼにもまだ津波で流された残がいや船などが残り、
雑草が生い茂っている状態でした。

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そういう現実を見ても震災の復興はまだこれからの課題だと痛感できま
した。そしてそれに加えて福島第1原発事故による放射能汚染の深刻な
被害が、福島のみならず各地で重大な問題を引き起こしています。腐葉
土や牛肉の放射能汚染は全国に広がりました。そして首都圏でもホット
スポットと呼ばれる放射線量が高い地点が至る所に点在していることも
次第に明らかとなりました。放射線被ばくにさらされる子どもたちをい
かにして守るかが、日本全体の大きな課題ではないでしょうか。

これらの様々な難題を生み出した3・11を機に、日本は大きく変わった
のではないかと私は思います。

ひとつは日本列島のどこで大地震が起きても不思議ではない地震活動期
の中で、生きていかざるをえなくなったということです。そして否応な
しに放射線被ばくと向き合い、どうやってその被害を少なくするかを考
えながら生活せざるをえなくなったということです。

そういう中で個人の生活だけではなく、企業のあり方も変わってきたの
ではないかと思います。震災時に企業としていかに社員やその家族の生
命・暮らしを守るかという危機管理の問題、そして企業としていかに社
会的責任を果たすかということも、今回の3・11を経て明らかになった
と思います。

食の安全を守ろうする農業の現場では、個人の力ではどうにもならない
放射能汚染という問題に絶望して、自ら命を絶った福島県の農家の男性
もいます。この方は有機農業を長年実践してきた先達の農民でした。

そういう厳しい現実を見据えながらも、個人も企業もいかにお互いに助
け合いながら3・11以降の日本で生き、そして復興していくのか、それ
が大きく問われているのではないかと痛切に感じます。

今のところ長野県では放射性物質はそれほど検出されていません。私も
農民の一人として、今まで以上により安心できる農産物を作りだす重要
性を感じながら、日々の農作業を続けています。ほぼ毎日更新している
私のブログでも、今までの農作業日誌だけではなく、3・11以来震災や
原発問題の様々な情報を掲載しています。よろしかったらご覧下さい。

http://naganoao.exblog.jp/

 

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最終更新:2024/04/08 RSSについて

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