妻恋坂つまこいざか

妻恋坂は、名前の由来となった妻恋神社の前を通る坂道です。
東京メトロ銀座線末広町駅から蔵前橋通りを西に向かい、妻恋坂交差点の信号を進行方向に渡ります。蔵前橋通りを背にして、妻恋坂交差点から北に歩くと、すぐ左手に現れる緩やかな上り坂が妻恋坂です。

江戸時代初期、妻恋坂は大超(だいちょう)坂と呼ばれていました。当時、坂の南側にあった霊山寺を開山した高僧、大超和尚の名前にちなんだものです。大潮坂、大長坂、大帳坂とも字が当てられていました。
しかし、霊山寺は1657年(明暦3年)の明暦の大火後に浅草へ移転。その後、1660年(万治3年)に、旧湯島天神町から坂の北側に妻恋神社が遷座してきたため、以降は妻恋坂と呼ばれるようになりました。


立爪(たてづめ)坂

妻恋坂を坂下から歩いていくと、右手の路地を数えて5つめに階段を備えた上り坂があります。これは、名前に「つま先を立てて上るほどの急坂」との意味が込められた立爪坂です。坂下と坂上が階段になっており、特に坂上は急な勾配になっています。
また、坂の近くにはごみ捨て場があったようで、ごみを表す「芥」の字をとり、芥坂(ごみざか)とも呼ばれます。


妻恋神社

妻恋坂の坂上近くまで来ると、右手に妻恋神社が見えてきます。 日本神話の日本武尊(やまとたけるのみこと)と、妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)、五穀の神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀っています。

妻恋神社の創建年は不明ですが、起源については次のような言い伝えが残っています。
その昔、日本武尊が東国征伐のために走水の海(三浦半島から房総半島の間)を渡る際、暴風雨に遭遇しました。これを海神の怒りであるとした弟橘媛命は、自ら人身御供として海に身投げをし、暴風雨を鎮めたそうです。
日本武尊が「あづまはや(ああ、吾が妻よ)」と弟橘媛命を偲んだことを知った湯島の郷民は、一行の野営地となった場所に日本武尊と弟橘媛命を祀りました。これが妻恋神社の始まりであると伝えられています。
また、五穀の神である倉稲魂命を合祀しているのは、湯島が早くから稲作を行っていた土地と伝えられているためです。江戸時代には妻恋稲荷と呼ばれ、多くの参詣者を集めました。

現在では、夫婦神が祀られていることから恋愛成就のスポットとしても知られ、縁結びのお守りを求めて訪れる人も少なくありません。
また、正月の三が日には、縁起物である「吉夢(よいゆめ)」の授与も行われています。B5サイズのしっかりした紙に、七福神が乗った宝船の絵と、宝船のみが描かれた絵の2種類があり、これを枕の下に敷いて縁起のよい初夢を見ようと願をかけるものです。
三が日と例祭日以外は無人になる神社ですが、「吉夢」は常時、通信販売(http://www.tsumakoi.jp/drm00.html)で入手することができ、事前に神社に連絡をすれば、直接受け取ることも可能です。

上の絵が「七福神宝船」、下の絵が「宝船」。

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