茗荷坂みょうがざか

文京区小日向の深光寺(じんこうじ)の南側から、拓殖大学の東門から正門へと向かう道筋と、東門から地下鉄茗荷谷駅へと向かう登り坂とを茗荷坂といいます。かつてこの近辺では茗荷の栽培が盛んであったことから、この名が付いたと言われています。


深光寺(じんこうじ)

茗荷坂の起点に位置するのが深光寺です。茗荷坂の斜面からさらに一段小高く伸びた坂を上ると、常緑樹の緑の向こうに本堂、右手に鐘楼が見えてきます。本堂の右隣に祀られているのは、小石川七福神の一つである恵比寿天。本堂に向かって左側には、『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』などで知られる滝沢(曲亭)馬琴の墓と、その一族の墓があります。

深光寺

馬琴は明和4年(1767年)に生まれ嘉永元年(1848年)に没し、江戸時代に活躍した戯作者です。本名は滝沢興邦(たきざわ・おきくに)といい、後には滝沢解(とく)と改めました。多数の別号を持っていた人物でもあり、晩年には髪をおろして曲亭馬琴(きょくていばきん)と号します。
馬琴の墓碑には法名「著作堂隠誉蓑笠居士(ちょさどういんよさりゅうこじ)」とあり、その左には馬琴より先に没した妻・お百の法名「黙誉静舟到岸大姉(もくよせいしゅうどうがんだいし)」の文字が見えます。台石に刻まれている家型の模様は、馬琴の蔵書印だといわれているものです。
晩年の馬琴は失明してしまい、作家生命の危機に立たされました。何人もの代筆者を頼んだものの、気に入る者が見つからず、最終的にその困難を助け、『南総里見八犬伝』を完成に導いたのが馬琴の長男・宗伯(そうはく)の妻であったお路です。この当時、宗伯はすでに故人となっていました。お路は文字を書くことすらできなかったといいますから、お路本人と、彼女に文字を教えつつ創作に取り組んだ馬琴の苦労には想像を絶するものがあります。お路の墓が馬琴の墓の左後方に建っており、法名は「操誉順節路霜大姉(そうよじゅんせつろそうだいし)」と刻まれています。


林泉寺(りんせんじ)

深光寺を後にして坂道をさらに進むと、目に入るのが曹洞宗・林泉寺の石段です。林泉寺は慶長7年(1602年)に現在の場所に創建された寺で、石段を上がった右手には全身を縄で縛られた「しばられ地蔵」が祀られています。これは人々が願いをかける時にお地蔵様を縄でしばり、叶うと解いたという伝習によるもので、「しばり地蔵」とも呼ばれていました。『江戸砂子』には、小日向林泉寺のしばり地蔵は大変有名である、と記されているそうです。
なお、石地蔵を荒縄で縛り上げて奉行所に運んだことをきっかけに反物の盗難事件を解決したという大岡政談で有名な「しばられ地蔵」は、葛飾区東水元の南蔵院(なんぞういん)にあるものです。

林泉寺


二つに分かれて拓殖大学正門と茗荷谷駅へ

林泉寺の前で茗荷坂は二つに分かれ、一方は拓殖大学の正門、もう一方は地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅へと向かいます。茗荷谷駅へ向かう道は幅を狭くし、飲食店や商店が連なる商店街として、それまでの江戸情緒とはまた異なった路地風の表情となります。通学の学生や地元の人々が行き交う道をたどり、行き着いた先は多くの人で賑わう茗荷谷駅の商店街。短く圧縮された江戸から現代までの時間を歩いてきたような、不思議な気持ちになりました。

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